「両親の喧嘩や暴力は当たり前の日常」機能不全家族で育ったKさんが直面した両親の介護【前編】

今回インタビューしたのは、30代のKさん。現在は、会社経営の傍らでヤングケアラーのピアサポーターや子どもたちの居場所づくり等のボランティア活動を行っている。前編では、両親のケアを担うまで、機能不全家族で育ってきた彼女の壮絶な半生を取材した。

父親の暴力を目にするのが当たり前の日常だった

ー幼少期はどのような生活でしたか

物心ついた時から両親の喧嘩が絶えない家庭でした。父親が専業主婦の母親に「家事ができていない」と怒鳴り、暴力をふるうこともありました。当時から母親は精神的に不安定だったのもあり、父親に責められるとさらにパニックを起こしてしまうような状態でした。当時の私は、両親の喧嘩を目の当たりにして「怖い」と感じることがあっても、その状況に対しては何とも思っていませんでした。父親の暴力の矛先が私自身には向かなかったのもあるのかもしれません。

引っ越しをきっかけに生活に変化が

ー小学生の頃はいかがでしたか

私が小学生の頃の母親は、まだ明るく生き生きとしている時の方が多かったです。喧嘩も落ち着いていて、この頃は普通の家族のような状態だったと思います。しかし、引っ越しがきっかけで生活は大きく変わりました。元々父親の仕事の都合で引っ越しすることは多かったのですが、小学校3年生の時に関西から東北に引っ越してからは父親が単身赴任で家を出たため、そこから母親と2人の生活が始まったんです。

母親の実家は関西にありました。しかし、引っ越したことで母親は親戚や知り合いとも会えなくなってしまい、精神的に落ち込むようになっていきました。一方で、私もクラスでいじめを受けるようになっていました。関西弁を話す私が物珍しかったのか、クラスで一緒になった子の一部からいじりのような感じで…その子たちから「ゲームをしよう」と言われたのが始まりで、それがエスカレートして私が友達全員分のランドセルを持って帰ったりすることがありました。

当時は「辛い」という感情には気付いてなかったかもしれません。気分が沈んだ時は親に心配をかけたくなかったので、学校から家まで大回りして、自分の気持ちを落ち着かせてから帰っていました。小学校5年生頃からいじめをしていた子たちとクラスが離れたのでいじめはなくなりましたが、私も母親も精神的に沈みこんでいたので、暗い生活が続きました。そんな生活の中で私は「父親が帰ってきたら何か変わるはず」と思い、父親に会いたいという思いを持っていました。

自分の状況を誰にも言うことなく、日々を乗り切っていた

お父さんが帰ってきてから状況は好転したのでしょうか

父親は私が小学校6年生になる頃に家に帰ってきたのですが、私の期待とは逆に状況は悪化していきました。両親の喧嘩や父親の暴力がまた始まったんです。しかし、この頃の私は成長して思春期や反抗期が重なったのもあって、暴力をふるう父親に対して反抗するようになっていました。また、父親にやられっぱなしの母親にも「なんで父親に反抗しないのか」と思うようになっていったんです。

父親に暴力を振るわれても暴力でかえすのはダメなので、父親の目の前で自分の手首を切ったり、警察を呼んだりして、子どもながらに父親の嫌がることを考えて反抗していました。両親は周囲の目を気にするタイプだったので、警察を呼ぶたび母親に怒られたりしました。でも、私はその親の反応から逆に「これをされると嫌なんだ」と学んで、両親の喧嘩や父親の暴力を止める手段として何回か警察を呼んでいましたね。

警察がきても両親は事実を隠そうとするばかりだった

ー警察を呼ぶことはとても勇気がいる行動だと思います。その点はどうでしたか

私が警察を呼んでも、警察は玄関口で母親と話して帰っていくだけでした。警察の人が私にも話しかけてくれていたのか…よく覚えていないのですが、母親が被害届を出したり、父親が逮捕されるなどの大事になったことがなかったので、「両親の喧嘩をとめる手段」として使っている感覚でした。

ーお父さんとKさんが争っている時、お母さんはどうされていたんですか?

その時の母親は静観しているような状態でした。見ないふりというか。私自身も母親に「助けてほしい」と思ったことはありませんでした。親を一番頼るべき対象としてみていなかったからだと思います。同じように、誰かにこのことを相談したいという気持ちもありませんでした。

悪化していく家庭環境

ー中学生の頃の生活はいかがでしたか

私が中学1年生になると、それまでいじめをしていた子達とも学校が離れました。全く新しい環境になり、部活を通じて「親友」と呼べる子もできました。外に居場所ができたことで、気持ち的にも楽になりました。ただ、家の状況としてはこの頃が一番ひどかったんです。

ある時、父親から喧嘩の流れで首を絞められたことがありました。その時は母親も「やめて!」と止めに入ってくれ、苦しくなったところで父親の手が離れました。父親も本当に私を殺すつもりはなかったと思いますが、ショックで私はその後すぐ1人で家を出ました。この時、私を助けてくれたのが部活の顧問の先生でした。

顧問の先生は熱血で厳しい先生でしたが、厳しい中にも愛情があり、部員たちは先生を信頼していました。ある時、その先生にぽろっと「父親とよく喧嘩をするんだよね」と話したことがあったんです。その会話をしてから私を気にかけてくれていたのか、先生は「何かあった時は警察じゃなくて俺に電話をしろよ」とよく私に声をかけてくれていました。

父親に首を絞められて家を出た時も、この先生の言葉を覚えていた私は、警察ではなく先生に電話をかけました。夜の23時前だったと思います。先生に事情を話すと「お母さんと一緒にいれる?職員室を開けるからお母さんと一緒に中学校においで。駐車場で待っとくから」と言われ、私は家に帰って母親を呼び、中学校へ向かいました。

母親が運転する車で中学校へ向かった

学校についてからは、校長室でしばらく他愛のない話をしていたと思います。気持ちが落ち着いてきた頃、先生が私に「家に帰る?それとも帰りたくないんだったら、家に帰らなくてもいい方法を探すけどどっちがいい?」と聞いてくれました。私が「家に帰る」と答えると先生は「じゃあお父さんを呼ぼうか」と父親を学校に呼んで、大人同士で話し合いの場をもってくれました。最終的に父親には「ごめん」と謝られ、その場は一旦落ち着きました。

ー先生がKさんの意思を尊重してくれているのが伝わってきました。先生は大きな存在だったんですね

そうですね。先生はその出来事があってからも過剰に気にかけてこないというか…ほど良い距離感で見守ってくれていたので、私もさらっと相談しやすかったですね。両親もその一件があってから先生を慕うようになったくらいでした。

突然、脳出血で倒れた父親

ーその後、生活はいかがでしたか?

父親が脳出血で倒れたのが、私が中学3年生の時でした。その日はいつも通り、放課後に友達の家に遊びに行っていました。すると友達のおばあちゃんに「Kちゃんのお母さんから電話があったよ。お父さんが倒れたんだって。すぐにお母さんに電話してあげて」と慌てた様子で言われ、友達の家からタクシーで病院に向かいました。

ー突然の出来事だった思います。当時はどのような心境だったんでしょうか

全然現実味がありませんでした。母親はずっと泣いていました。私は周りがなんの話をしているのか、何が起こっているのかわからず、ドラマの中にいるみたいな感覚でしたね。放心状態でした。母親がずっと泣いているのに、私がずっと無表情で座っているので、看護師さんが私の具合が悪くなったと心配したくらいでした。とにかく全く現実味がなかったですね。それから1週間、母親は病院に泊まりこみました。私はその間家に一人で過ごしていたのですが、そのタイミングでやっと「日常が変わってしまうかもしれない」と感じました。

ーお父さんの容態はその後どうでしたか?

脳出血の程度が強く、寝たきりになってもおかしくないと言われていましたが、まだ父親が若かったのもあって、半年ほどリハビリ入院をした後に自宅に退院しました。それでも、右半身麻痺と言語障害が残りました。歩行もできず、要介護度は最重度でした。それから私と家族の生活は一変していきました。

いじめや両親の喧嘩、暴力など、壮絶な環境の中で生活していたKさんが直面した父親の介護。Kさんはどのように日々を乗り越えていったのでしょうか。後編に続きます。

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この記事を書いた人

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