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5歳で始まる精神疾患の母のケア。悪化していく母の症状と長女としての重圧(後編)

子ども時代、精神疾患を抱える母と過ごした桜井さん(仮名)。
現在理学療法士として働きながら、精神疾患のある親を持つピアサポートグループの運営メンバーとして活動している。また、「ヒトリノ」(@hitorino_____)の主催として、精神疾患の家族がいる家庭で育った子どもたちのためのオンライン語り場を定期的に開催している。

インタビュー前編では、5歳から始まった母親のケア、小学4年生にして料理と家事の全てを担う彼女のリアルをお届けした。後編では、悪化の一途を辿る母の病状と、壮絶な中学生以降の人生をお届けする。

大人に頼ることを諦めた、先生の一言

ー当時、誰かにこの状況を相談できなかったのでしょうか?

相談はしていなかったです。というのも、大人に相談できなくなったきっかけがありました。小学2年生のある日、友達と家族の話をしていたんですが、母親や家庭の状況について色々と考えてしまった私は急に泣き始めてしまったんです。その場はとりあえず保健室に連れて行かれたんですが、そこで保健室の先生に「どうしたの?」と聞かれました。

ここで母親のことを話すかどうか、打ち明けていいものかすごく悩みました。「お母さんが悪く思われるかも」「わかってもらえないかも」と。しかし勇気を振り絞って、母親のことで家がすごく辛いと先生に打ち明けました。当時の私はそこで先生に「辛かったね」と受け止めて欲しかったんです。

先生は最初は「うんうん」と聞いていたんですが、一通り話を聞くと「えらいね、頑張って」と励まされちゃって。さらに「お姉ちゃんだから頑張らなきゃね」と言われて、本当にショックでした。私はもうこんなに頑張っているのに、もっと頑張らなくちゃいけんだ。話を聞いて受け止めて欲しかっただけなのに。

そこから私は「人に頼っても寄り添ってくれないし、辛いだけ」と思うようになりました。大人や先生に家のことを聞かれても「母親が病気でいろいろあるけど、別に大丈夫です」と言い続けました。大人に対しては「お前に何がわかるんだ」と思っていましたね。

ー友達や身近な人にも相談はできなかったんですか?

中学生の時に、友達に話してみたことがあるんです。「昨日こういうことがあって〜」と母のことを話してみたら、話の内容が重すぎたのか受け止めきれなかったみたいで、困らせてしまいました。それ以来友達にも基本話さなくなりましたね。

身近には妹もいましたが私とは対照的な性格で、母が暴れた時に私は「なんとかしなきゃ」となるんですが、妹は部屋の隅にいるような感じだったので、私にとって妹は「母の脅威から守る対象」として捉えていました。なので、母のことについて、誰にも相談することはありませんでした。

大人にも、友人にも頼れない。一人でどうにかするしかない日々

活動的な中学校生活と、ケアラーの二重生活

ーもう無理かも、と思うことはありませんでしたか?

しょっちゅうありました。でも、それが日常なので。自分はお姉ちゃんなんだから、ということで気持ちを奮い立たせていました。父も楽にしてあげたかったので、父に気持ちを打ち明けるわけにもいかないですし。救いがあるとすれば、当時嵐のファンクラブに入っていて、嵐関連のことをしてる時は少し楽になれたかもしれません笑。

ー勉強や学校生活に支障は出ていませんでしたか?

勉強や成績にはあまり影響は出なかったですね。家が2階建てなんですが、私が2階で勉強している時に1階で母親が暴れることもしょっちゅうでした。そうなったら私が1階に行って母親を落ち着かせて、その後また2階に戻って勉強を再開していました。ハードなように聞こえますが、当時はもうこれが日常になっていたので、それで勉強が進まないと感じてはいなかったです。

家で母親が自殺未遂したりオーバードーズをした日があったとしても、翌日には私は涼しい顔をして学校に行ってました。そんな生活をしながら学校では部活の副キャプテンもしていましたし、表面上は、学校生活も大きな問題はなく送れていましたね。

でも実際のところ、家で何か事件が起きた時は、次の日学校に行く気力が無いことは多々ありました。でも「私が学校を休んだら父が心配するし、精神的な負担をかけるかもしれない」と思って気力を振り絞っていたので、中学生の頃は父のために学校に行っていたような側面もあります。

ー当時、こういった支援や助けがあったらよかったのにな、と思うことはありますか?

この質問はよく聞かれることでもあるんですが、正直家事や料理などはもう日常になっていて自分で全てこなせるから、家事支援が欲しかったとは今でも思わないですし、当時制度があったとしても使わなかったと思います。

私が今になって思うのは、母親が暴れた時に、私の目と耳と塞いでその場から遠ざけてくれる人が欲しかったですね。

当時、祖父や祖母は私の家庭の状況を知っていました。それなのに、子どもの私が母親のケアをしていることを当たり前のこととして考えていました。「家族ですら、私のことを気にかけてくれる人はいない」「家族ですら、助けてはくれない」という事実が私の人間不信を確かなものにしていきました。

なので、当時私の周りで当然の空気として流れていた、お姉ちゃんだからお母さん代わりに頑張るべき、家族だから支えるべき、のような固定概念や家族感が無ければ、周りの大人が違和感に気づいてくれたかもしれないな、と思います。

例えば親戚が父親の相談相手になってくれたり子どもを気にかけてくれたりしてくれるだけで違ったのになと思いますね。私は親戚に会うといつも「お母さん大丈夫?」と言われていました。みんなお母さんの心配はするのに、誰も私の心配はしてくれなかったんです。子どもが自ら大人を頼ることはすごく難しいことなので、大人の方から子どもの自分に深く立ち入って欲しかったなと思います。

活発な学校での姿とは対照的に、家では母親を抑えるのに必死な日々を過ごした

高校生になり、崩壊する家庭

私が高校生になると、父はこの状況に耐えられなくなり、離婚へと話は進み始めました。しかし母は離婚に合意せず、結局裁判となりました。裁判期間中、母は私たちとは離れて母方の実家に帰るのですが、母は合鍵を使って私たちの家に来ては、私と妹に毎日毎日父の悪口を吹き込むようになりました。

母はパーソナリティ障害の症状もあり、見捨てられたと思うと攻撃的になる傾向がありました。合鍵で家に侵入したかと思うと父の服を全部捨てたり、父の枕の下に「呪死」と書いた紙を仕込んだり・・・。母からの届く日々のメールも罵詈雑言で埋め尽くされていました。

そして私はそんな生活がいよいよ耐えられなくなり、母に絶縁を切り出しました。

正直なところ、娘が縁を切ると言ったら母も自分の異常さに気づいてくれるかと淡い期待を抱いていました。しかし母は「ああそう」と軽く返事をしただけで、私の期待は打ち砕かれました。そして、そこからの生活は本当に地獄でした。

ー家庭の状況に変化があったんですね

私と父はタッグを組んで頑張っていたのですが、妹が母に同情し「私と父 VS 妹と母」という構図が家庭にできてしまったのです。私としては、妹のことはこれまでずっと母親の脅威から守り、代わりに家のことを全部私がしていたのに、妹が母親の味方をすることが本当に理解できず、妹のことも許せなくなっていきました。

そこから家は冷戦状態になりました。私が学校から帰ってきたら、母と妹はおしゃべりをしながらご飯を食べています。二人とも私を空気として扱っているので、私が帰っても無視されます。私は二人の会話を聞きながら自分と父の分のご飯を作って食べていました。

そんな生活を続けているうちに、私も父もどんどんと疲弊していきました。そしてあるとき、私が母と取っ組み合いの喧嘩になったのですが、私が過呼吸になってしまいました。すると、母はもうそれ以降家に来なくなったのです。

そしてそれ以来、私は母には会っていません。

母のいない生活、そして社会人へ

ーお母さんが出て行ってからはどういう生活になりましたか?

社会人になるまでは、変わらず私が洗濯、掃除、料理を行っていました。父親も仕事が忙しく、私が支えなければと思っていましたね。当時その状況を飲み込んではいたのですが、あまりに辛くて、泣きながら真っ暗な部屋で洗濯物を畳んでいたこともありました。家をことを一切せずに私の仕事だけ増やす妹や、そんな妹を擁護する父親を見て「私は家政婦なのか」と絶望していたんです。

妹とは険悪な関係になってしまいました。仲直りする機会自体はあったのですが、私の中でどうしても許すことはできず、なるべく距離を取るようにしています。

父の支えになりたかったが、現状があまりに辛くて泣いてしまうこともあった

ー社会人になって、変化はありましたか?

社会人になって一人暮らしをして、ようやく解放されたと思いました。しかしそんな思いも束の間、燃え尽き症候群みたいになってしまっていました。今まで自分はお父さんのためにこれをする、お母さんのためにあれをするという感じで他人軸で生きてきたので、自分のためにどう生きていいかわからなくなってしまったんです。

それが影響してか、社会人1年目の夏頃に大きく体調を崩しました。適応障害とうつ病です。それでもタクシーを呼んで無理やり会社に行っていたんですが、ある日仕事に行こうとしたらベットから動けなくなって、会社に行けなくなってしまいました。

当時の私は、職場でわからないことがあっても、まず自分でなんとかしようとする傾向がありました。「人に頼る」ということがわからなかったんです。今までの人生で、助けてもらう成功体験があまりに少なすぎたんだと思います。それが結果的に、自分をどんどん追い込んでいきました。

休職期間に見つけた、自分の人生の生き方

そこから3ヶ月ほど休職しました。あるときテレビをつけると、ちょうど統合失調症のお母さんをケアするヤングケアラーの特集をやっていたんです。あ、これ私だ、となりました。そこからカウンセリングに通い始めたり、支援団体とつながって行ったんです。

また、休職期間中、お医者さんからは「何もしないでください」と言われたのでその通りに過ごしていました。そこで私は生まれて初めて、自分の好きな時に好きなものを食べて、好きな時に好きなところに行けるということを体験しました。

それが本当に心地よくて、自分自身を見つめる大きなきっかけになりました。今では症状も回復し、問題なく社会生活を送れています。

ーこれからどういった活動をされていきたいですか?

当時の私に「お姉ちゃんなんだから」「家族なんだから」「しっかり者だから大丈夫だよね」みたいな先入観を持って大人は接するのではなく、子どもに”一人の人間として”向き合ってほしかったなと思っています。それで今”ヒトリノ”と名付けたピアサポートグループを立ち上げました。ヒトリノの活動を軸にして、精神疾患の親を持つ子どもたちの啓発活動などをしていけたらいいなと思っています。

今はピアサポートグループを立ち上げ、自分の経験を伝えている

ー貴重なお話、ありがとうございました。

終わりに

EmpathyMediaでは、
・ヤングケアラーの方
・元ヤングケアラーだった方
へのインタビューを行っています。ご興味を持っていただいた方はお問い合わせフォームからお気軽にお問い合わせください。

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EmpathyMediaは「生きにくいを、生きやすく」の株式会社Empathy4uが運営しています。

【イベントのお知らせ】
桜井さんがヤングケアラーとしての実体験を語るオンラインイベントが9/5(木) 20:00〜にて開催されます。
詳しくはこちらから。



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この記事を書いた人

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