MENU

祖母のケアを続けた子ども時代。機能不全家族で育った壮絶な日常

元ヤングケアラーとしてインタビューを受けていただいた「今日の月(仮名)」さん(@koyoinotuki_m)。
現在障がいを持つ子どもの支援を行う傍ら、自身のヤングケアラーとしての経験や虐待サバイバーの経験を元に、子どもを支えるすべての人と子どもたちのための居場所づくりを定期的に開催している。

2024年6月にヤングケアラー支援の強化に係る法律が成立・施行され、近年ヤングケアラーという存在に関心が集まる一方、ヤングケアラーという存在はまだイメージがハッキリしないと感じる方も多いであろう。今回は、機能不全家庭に生まれヤングケアラーとしての日々を過ごしながら、必死に自分の人生を掴み取ろうとした今日の月さんのインタビューを紹介する。

仕事一筋の職人気質で抑圧的だった父、自身も幼少期虐待を受けていた母

ーどういった家庭環境に生まれたのでしょうか?

両親と祖母、そして私の4人で暮らしていました。父は板前として働いており、家庭のことは省みないタイプでした。母も元々孤独な人で、子どもの頃、家族から身体的にも精神的にも酷い虐待を受けてきた経験があり、結婚を機に実家から逃げるような形で上京したようです。

私が小学生の頃の話ですが、母は実家からの要求で父が稼いだお金を定期的に送っていました。ある時親族が家のお金の減りに気付きましたが、実家の親族達は「お金のことなんて知らない」と言い張り、母は玄関先でボコボコに殴られて追い出されたというエピソードもあります。母は母で、機能不全な家庭に育ったようです。

実家周辺の地域は閉鎖的な文化で、周りが手を差し伸べてくれる環境ではなかった

祖母の認知症の発症。そして始まるケアラーとしての日々

ーヤングケアラーとしての日常が始まったのはいつごろでしょうか?

私が小学6年生の時に、祖母が認知症を発症しました。祖母は夜中に「私の家はここじゃない」と何度も起きるので、それを「ここはおばあちゃんのおうちだよ」となだめたり。中学校も基本寝不足で登校していましたね。そして私が中学を卒業する頃、祖母が車椅子から落ちて頭を打ち、寝たきりになってしまいます。そこからは本当に大変でした。母と私で、祖母の食事を介助したりトイレのお手伝いをしたり。母と交代で祖母の介護はしていましたが、父は仕事を言い訳にして、無関心な様子でした。

そんな生活を送っていると、父方の姉(叔母)が、母に祖母を任せるのは心配だから私も一緒に住むということで実家に戻ってきました。

ー母、父、祖母、叔母、娘という形での同居生活になったんですね。

そうです。ここから家庭内の関係は混沌としていきます。叔母が実家に来てからというもの、母は叔母から四六時中怒鳴られ、ひざまずかされ、異様な八つ当たりが行われるようになりました。それも全て当時中学生だった私の目の前で日常的に行われていました。

幼少期の頃、親から放置され続けた影響は大きい。気をひきたくてわざと階段から落ちたふりをすることもあった

ーその当時、その状況をどう感じていたのですか?

母はもともと祖父母ばかりを気にかけていたので、私にはネグレクト気味でした。幼少期、わざと階段から落ちてみたりもしましたが、今思えばこれは一種の自傷行為であり、母に心配してほしいという願望による行動だったのだろうと思います。関心を全く向けてもらえない状態が続くと、人は愛着形成が歪んでいきます。これまで肯定的な関心を向けられた経験が私にはほとんどありませんでした。

そんな母が、叔母から精神的・身体的・宗教的なDVに遭います。叔母はそのDV行為について私にも賛同を求めてきました。異様な光景だと今では思うのですが、当時の私は叔母が母代わりのような存在だったこともあり、叔母に賛同するようになっていきました。ネグレクトから、面前DVと叔母からの過干渉へと虐待環境も変化しました。今思うと、一種の洗脳状態だったのかもしれません。

そんな中でも祖母の介護は進みます。高校へ進学するための費用も母の金銭の横流しにより無くなっていたので、中学を卒業したら就職するように言われていましたが、叔母の協力で高校に進学できるようになりました。進学予定ではなかったので勉強は大変でしたが、勉強をしている時間は介護をする必要もなく、勉強に没頭できました。

高校入学で見つけられた、生きる希望

ー高校に入学してからの生活は

高校に入学したあとは、自分の好きなことができるようになっていきました。生徒会の活動を行いながら美術部で精力的に活動し、勉強面でも特進クラスに入っていました。

一方家では、叔母が母の料理を不味くて食べられないと言い始めたこともあり、家族の朝昼晩全員の分のご飯を私が作るようになりました。確かに母親が作る料理は材料の賞味期限が4〜5年、酷いと10年ほど過ぎていたり、食べるのが難しい状態だったこともあります。そんな状況に怒った父が、母が作った料理をほうり投げていたことも覚えています。

決して家が平和になったわけではなく、介護がなくなったわけでもありません。でも、高校では勉強や部活などに打ち込むことで、家の嫌なことから逃げられることができて生きる希望を感じることができていました。とても忙しい生活でしたが、自分の人生が拓けていく感覚がありました。

高校に入学してから、自分の人生に希望を見出すことができるように

ー大人の今になってから思う、当時の自分に行って欲しかった支援などはありますか?

地域の目が自分に向いてくれていたら、少しでも違ったのかなと思います。当時自分が住んでいた地域は、回覧板が回ってくるなど一定の地域交流はあるものの、未就学時期や小学生の時、私が外で締め出されて泣いていても周りの住民は見て見ないふりをするような地域でした。私が家出をして夜公園に一人でいたときも、「児童相談所や警察に行ってもどうせ家に戻される」と思っていたので、頼れる大人が周りにいるとは考えていませんでした。

ーその後、美大に進学されるんですね。

はい。叔母が学費を支払ってくれるという話もあり進学できたのですが、奨学金の1種と2種を両方満額で借りていました。そして私が20歳になったとき、ようやく自立して自分の生活を送ることができると家を出ようとしたのですが、そこで叔母から「あなたが学費1000万の借金を返していくのよ」と言われたのです。

奨学金のことや叔母と同居していた都内の賃貸から逃げるために行政に相談してみても、大学を辞めて生活保護を受けるしかないよとか、シェルターはあるけど外部と一切連絡はできなくなるけどいいの、など現実的ではない選択肢しかそこにはなくて、逃げようと思った時には高い壁が幾つもそびえ立っているような状況でした。

そしてこれは後になってわかるのですが、私名義で借りた多額の奨学金の多くは、実家と叔母の生活資金として使い込まれていたのです。

祖母の死去、ケアは終わりを迎えるが・・・

ーおばあちゃんが亡くなったのはいつ頃ですか?

私が家を出ようと計画を立て始めた大学3年生のタイミングで祖母が亡くなりました。夜の0時過ぎまで学業と両立する中、真夏に倒れ、当時アルバイトを4つ掛け持ちし、私も満身創痍の状態でした。

祖母が亡くなったことで、正直「解放されたな」という思いはありました。これは私だけが解放されたのではなく、家族みんなが解放されたという気持ちでしたね。叔母の狂信的な振る舞いや、母の依存心も祖母が亡くなったことで我に返り、普通の家庭になるのではないかとこの時は期待したこともありました。

お葬式では、祖母のお骨を拾いながら「おばあちゃん、本当によく頑張ったね」と、自分の子どもや妹が亡くなったような心境でした。

介護している時も、私は祖母と接している時は自分の妹や子どもと接しているようでした。妹が亡くなった感覚に近いかもしれませんね。痛いものがなくなって本当によかったね、と。

祖母が亡くなったときは、まるで妹を失ったかのような気持ちだった


ーその後の生活はどう変化しましたか?

祖母のケアは無くなりましたが、家族とのトラブルは耐えることなく、その後家族や親族とは縁を切りました。私はのちに結婚し現在子どももいますが、両親には知らせていません。

そこから紆余曲折あり、今現在は放課後等デイサービスで支援員として働いていますが、今までの経験がこの仕事で役立ってるなと思うことも多いです。子どもの機微や些細な変化など、その子を見ただけでなんとなく分かることがあります。子どもの表情などから家庭環境の状態に気付けたり、愛着障害の児童に携わる場面では、自らの経験から児童の気持ちを想像することができたりと活かせることもあり、この仕事にはやり甲斐を持っています。

発達支援において、自分の今までの人生経験が大きな1つの引き出しになっていると感じます。

NPOの立ち上げ、そしてヤングケアラー当事者に伝えたいこと

ー最近のご活動について

つい最近、虐待を受けた当事者の方々とNPO法人を立ち上げました。虐待問題に関心を持っている議員や活動家、学校や教育委員会に向けての活動がメインなのですが、虐待が身近で起きているという事実と、虐待されている子どもたちへの支援が確立されていないという現状を皆さんに知っていただきたいという思いで活動しています。

ーヤングケアラー当事者に向けて、メッセージをお願いします

「自分の人生はいつからでも取り戻せる」というのを伝えたいです。現在はSNSが普及して、自身の家庭の異常さに気づけたり、ネット上で相談できる世の中になってきています。昔は支援の範囲が狭かったり限られていましたが、今少しずつ支援団体が立ち上がっています。ニュース記事等でも取り上げられるようになり、見えなかった部分が世間にも少しずつ認知されるようになってきました。

「誰もに居場所は在って良いし、ここではありのままのあなたで居ていいんだよ」というのを伝えたいです。

今日の月さんが代表を務める、Child Supporter’s Bar/Cafeで行われたサプライズお誕生日会の様子

ー貴重なお話、ありがとうございました。

終わりに

EmpathyMediaでは、
・ヤングケアラーの方
・元ヤングケアラーだった方
へのインタビューを行っています。ご興味を持っていただいた方はお問い合わせフォームからお気軽にお問い合わせください。

公式X:@EmpathyMedia4u

EmpathyMediaは「生きにくいを、生きやすく」の株式会社Empathy4uが運営しています。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

EmpathyMedia編集部では、ヤングケアラーや元ヤングケアラーの方々のインタビュー記事やヤングケアラー関連の情報を発信しています。
インタビューを受けていただける
・現在家族のケアやお手伝い、介護などを行っている方
・過去家族のケアやお手伝い、介護などを行っていた方
を募集しています。

応募いただける方は、以下のお問い合わせからご連絡ください。
https://corp.empathy4u.com/#contact

あなたの経験を、今家族のケアを頑張っている人々へ伝えてみませんか?

目次