社会福祉士として、NPOで若者支援を行う倉田さん。
幼少期両親が離婚し、双極性障害の母親のケアを続けながら家事、勉強、受験をこなしていた彼女は、どのようにして日々の生活を乗り切っていたのか。経済的な問題に直面しながらも自分の道を切り拓いた彼女の生い立ちをインタビューした。
母と祖父母と親族。複雑な家庭環境で育つ
ー家族構成を教えてください。
両親は私が生まれる前に離婚し、私と母は母方の実家に住んでいました。最初は母と私、祖父と祖母の4人で住んでいたのですが、途中で母方の叔母も離婚し実家に戻ってきたので、叔母と従兄弟も加わり6人家族になりました。
叔母は学校の先生をしていたこともあり、一家の大黒柱的な存在でした。私が父親がいないことを気にしていた時には、叔母は「私をお父さんと思っていいよ」と言ってくれたりして、私にとって叔母は父親のような存在でした。そして祖母は母親のような存在でいてくれて、従兄弟は姉のように感じていました。一方母は、私にとっては気にかけるべき存在という印象でした。
たまに喧嘩したりもするけど、家族の仲は悪くなかったと思います。
ーお母さんの病気の症状が出始めたのはいつ頃なのでしょうか?
母は私が生まれる前から双極性障害を持っていたようでしたが、それを祖父母から教えてもらったのは私が小学3年生の頃でした。
最初はハッキリとはわかっていなかったんですが、私が小学高学年になる頃には、自分の母が病気であることを認識するようになりました。例えば母と一緒に家に帰っている途中で、母が突然大きな声で歌い始めたり酔っ払いみたいな状態になることがあり、「やめてよ」と言っても全然やめてくれないんです。
躁状態の時は、母が電車で突然歌い始めるので他人のふりをしていたこともありました。お酒を飲むことも多く、水筒にお酒を入れて持ち歩いていましたね。一方うつ状態の時は、「(そこまで深刻な状態ではないのに)うちにはお金がないから」と何かと悲観的になることが多かったです。私は子どもながらに深刻に受け止めてしまい、サイズの合わない靴を我慢して履いたりしていました。
そうしたことが重なり、子どもながらにこれは普通じゃないなと思うようになりました。母は、躁状態の時は「私は病気じゃない」と言い張るんですが、うつ状態の時はとても家を出られる状態ではなく、全然病院に行ってくれなかったのでとても困った記憶があります。
ー金銭的に困窮はしていなかったのでしょうか?
離婚後、おそらく養育費は出ていなかったのではないかと思います。ただ、祖父母の実家で住んでいたので、衣食住に困ることはありませんでした。とはいえ、他の子達がやっている習い事や塾は我慢していたなという思い出があります。外食もほとんどありませんでした。
「悩みを相談できない」という悩み
ー中学生のころは日々の生活はどうでしたか?
何か困ったことや悩みなどがあっても、親や家族に頼ってはダメ、と思っていました。母の病気のことについても、周りには話せないと思っていて、学校の先生にも伝えることはできませんでした。
ーなぜ、周りに話せないと思っていたのでしょうか?
正直なところ、周りに話したところで何か変わるのだろうか、と思っていました。また、私と同じような立場の子なんて周りにいないんじゃないかなと思っていましたし、もし家庭の事情を話してもきっと驚かせてしまうと思い、中学生の頃は周りには全く話していませんでした。
中学校には接しやすい優しい先生がいて、「なにか困ってないのか?」と言われたことがあったんですが、親が病気ということがみんなに知られないかなという恐怖心が勝ってしまい、やはり話すことはできませんでした。家族の中でも病気のことは外に話さないようにしようという雰囲気があり、家のことはベラベラ人に話さないようにしなさい、と言われていたのもあると思います。
ー実生活に影響などは出ていましたか?
母のケアによって直接悪影響を受けたことはそんなにないんですが、学校で人間関係やいじめの問題があったとき、(従兄弟の)姉は働きに出ていて、叔母も働いていて忙しい、祖父母は世代が離れてるし・・・といった感じで自分の悩みを家族に話すことができなかったのは辛かったです。中学生の時は3ヶ月ほど不登校だった時期もあり、「悩みを相談できない」のが悩みでした。
勉強にもつまづいていました。私が通っていたのが地元では有名な素行の悪い中学校だったのもあり、授業が崩壊していたんです。授業時間がめちゃくちゃな状態なので塾に行ってカバーしている子が多かったんですが、私は塾に通うこともできないので、勉強も授業も楽しくなかったです。何のために学校に行ってるんだろうと思いながらも、なんとか無事高校には進学ができました。
祖父が亡くなり、悪化する母の病状
そして私が高校2年生の頃、母と仲の良かった祖父が亡くなったことで、母の症状が悪化してしまいました。
母はもともと穏やかな性格なのですが、祖父が亡くなってからの母は、叔母と喧嘩した時にすごく攻撃的になったり、祖父のことを思い出しては突然泣き叫んだりと喜怒哀楽が激しくなっていきました。落ち込むと自分の部屋から出てこないですし、かと思えば突然家から出ていったりと落ち着かない日々が続きました。
ある時警察から「駅のホームでぐったりされています」と連絡がきたこともあったんですが、私は未成年なので「保護者」として対応できるのは叔母しかいませんでした。母が不安定になっていくことで叔母が対応する場面が増えていき、仕事で忙しい叔母は疲れてしまい叔母と母の関係も悪くなっていきました。
ー家族の関係性はどうなっていきましたか?
家族の言い争いも絶えなくなり、叔母も我慢の限界が近づいていました。
私も家族の状況をスクールカウンセラーに相談してみたりしたんですが、具体的な解決につながることはありませんでした。その時ひょっとしたらスクールソーシャルワーカーがいてくれたら、また違ったのかな、と今となっては思うことがあります。
そして叔母は限界を迎え、もう母とは一緒に暮らせないと言い、母は一人暮らしをすることになりました。
私は定期的に母の家に通っていたんですが、母は一人で過ごすうちに酷いうつ状態になっており、食事も摂ることができず餓死寸前になっていました。そして母は救急車で運ばれ病院に入院したのですが、私が病院で母に会った時には、母は痩せ細り、ガリガリになっていました。
私は、こうなる前に何かできなかったのか、他に選択肢があったのではないかと悩み、母がこうなってしまったのも自分のせいなんじゃないかと思っていました。当然、母をこれ以上一人で暮らす環境下に置いておくことはできず、そのまま母は精神病院に入院することになったんです。
ーその時、自分や家族の環境を理解してくれる人はいましたか?
高校生になってから、お母さんがうつ病だという子に会うことができて、その時はこの環境が自分だけじゃないんだと思うことができました。
一方、三者面談などは一緒に来てくれる人がいなかったのでずっと二者面談でした。先生は「親御さんは来れないの?」と言ってくれてはいましたが、厳しい雰囲気の先生だったので特にそれ以上は相談することもできず、大人に頼ることはできていませんでした。
ー受験期と家族のケアの両立は大変でしたよね。
洗い物、掃除、料理、お使いような家事は全て手伝っていました。私が高校生の頃は祖母も高齢になり、買い物などは私がするしかない状況になったので、晩御飯の材料は学校の帰り道に買って帰っていました。高校生の頃は家事の負担が大きく、叔母と私の間で家事の負担で揉めることが多かった気がします。
その頃は、勉強と家事が私の人生の中心でした。母のお見舞いに料理を作って持っていったり、日々の家事をこなしながら受験勉強の時間を捻出していましたが、叔母からは「(経済的に)国公立大学を目指すか高卒で公務員になることを考えて」と言われていました。
それでも、私は母に怒鳴られたりしたことはないですし、ずっと家族仲が険悪であったということでもないので、母には感謝の気持ちが大きいです。
大学を経て、福祉の道へ
その後無事に大学に合格し、大学では若者への支援について興味を持つようになりました。大学卒業後は社会福祉士を目指すために、働きながら専門の学校に通い、社会福祉士の資格を取得しました。
そして私は福祉の職に就くのですが、ある日、行政や医療の手続きがやりやすくなるのではと思い、行政上の手続きを踏んで母と私の二人世帯に組み替えたんです。しかしそれが原因で、母が精神病院に入院したことによる高額な医療費請求が私に来てしまい、私の初任給はほとんど母親の医療費に消えてしまいました。
このままでは当然生きていけないので、行政に相談し結局母とは世帯を分離することになりました。
まさか、自身にも双極性障害の診断が
その後私は結婚し、夫の仕事の関係で地方に引っ越しをしました。
しかし引っ越しして新しい環境で生活するうちに、頭の中がうるさく感じたり、焦燥感が止められなかったり、常に色々なことを考えてしまうような状態に陥りました。そしてある時から、頭の興奮状態が冷め切らず夜に寝られない日が続くようになりました。
そんな私の様子を見ていた夫が、私を病院に連れていったんです。そして、私には母と同じ双極性障害の診断がつきました。
皮肉なことに、私も母と同じく当時は「なんで病院に行かなきゃいけないのか」と思っていました。しかし叔母に電話すると「お前のお母さんを思い出してみなさい」と言われ、ハッとしたんです。
今も服薬と通院は継続していますが、幸い病状は安定しています。
ー今振り返って、当時どういった支援があれば楽になったと思いますか?
カウンセラーだけじゃなく、ソーシャルワーカーも学校に配置してくれていれば、具体的な問題の解決に寄り添ってくれていたのでは、と感じています。心理的サポートも大切ですが、それだけでは不十分で、生活サポートも必要だと思います。
また、うちの家庭は母を病院に行かせることに本当に苦労しました。心理的な診療もオンライン診療が広まってくれればな、と思います。
そしてこれは私の強い思いですが、社会福祉に「若者支援」という分野を新たに取り入れてほしいと思っています。社会福祉の教科書的には、支援は高齢者支援、障害者支援、児童福祉保育というジャンルで分かれていて、若者支援という枠がありません。ユースセンターを増やしたり、訪問看護で若者がケアから解放される時間が必要だと思っています。
ー同じ境遇の子どもたちに向けてメッセージをいただけますか。
無理に家族のことを話す必要はないと思います。それでも、本当に信用できると思える人に出会えたら、大人でも学校の友達でもいいので自分や家族のことを話してみてほしいです。
そしてたとえ今が辛くても、ちゃんと楽しい時間も未来で待ってるはずだから、諦めないでほしい。家族はずっと続くわけではないし、家を出る選択肢もあるし、親だから絶対大事にしなきゃいけないというわけでもありません。今の状況は、きっとずっとは続かないよということを知っていてほしいです。
周りの人を頼ることで、今の状況を変えることはできるかもしれないんです。
ー貴重なお話、ありがとうございました。