「地域全体で支え合う社会を作りたい」現在の活動に繋がった母親のケア経験と未来への思い【前編】

今回お話を伺ったのは、国分寺市市議会議員の松岡真里さん。議員を目指したきっかけは、お母さんと過ごした時間にありました。インタビューの前半では、現在の活動、そしてお母さんのケアを始めた当時のお話を伺いました。

現在の活動のきっかけ

―市議会議員になられたきっかけを教えてください。

国分寺に住み始めたのは、1人目の子どもをイタリアで出産してから2か月後のことでした。知り合いが全然いない中で子育てがはじまったのですが、その時の私は「子育ても家事も1人でやらないといけない」と勝手に思っていたんです。でも、色んな人と関わるにつれて、地域の人とみんなでやった方が喜びを何倍にも受け取れることができると感じ、自分でコミュニティをつくるようになりました。これが9年くらい前のことです。

 私は大学生の頃からずっと食の分野に関わっていました。それもあって、無農薬やオーガニックの野菜を広めたいという思いがあり「無農薬の野菜でみんなでごはんを作ろう」というコミュニティを始めたんです。すると次第に人との繋がりが増え、活動が広がっていきました。また、その活動を通じてある友人から「産後にご飯を作りにきてほしい」という依頼をもらったことがきっかけとなり、個人的に産後の母さんにご飯を作りに行くという仕事も始めるようになりました。

 育児をしながらの家事って本当に大変なんです。でも、実際にこの仕事を始めると、大変な中でも食事作りを頼むことができなかったり、実家以外は頼れない、といった風潮を実感するようになりました。そこで直接「頼っていいんだよ」と妊婦さんに声をかけたり、SNSで発信するなどしていましたが、後々「やっぱりしんどくて産後うつになってしまった」という声を聞いたりすると「なんでこんなにお互い頼り合えない社会になってしまったんだろう」と、非常にもどかしさを感じていました。

活動を通じて、育児の大変さや周りに気軽に頼ることができない実情を知った

2022年、様々な活動を通じて親交のあった議員さんの所属する地域政党から「来年の地方統一選に立候補しませんか?」と提案を受けました。最初は「私が議員になるなんて考えられない…」と断るつもりでいましたが、その後、自分の妊娠が判明したんです。2月に出産、そして4月に選挙があるということで、自分一人では絶対に無理なスケジュールだと思いました。それでも、いや、だからこそ逆に、みんなで助け合いながら政治に参画しているロールモデルになれると思い、立候補してみようと思ったんです。

母親の不調とケアの始まり

—これまでの様々なご経験が今に繋がっているんですね。過去のお話も伺っていいですか?

家族は母、父、2つ下の弟、私の4人家族でした。両親は元々仲が悪く、仮面夫婦のような感じであまり喋っているのを見たことがありません。母親は父親に「男らしさ」や「優しさ」などを求めていましたが、父親は仕事ばかりで家では一切喋らないような人でした。父親はなにか不満があってそういう態度をとっていた訳ではなく、ただ自然にそうふるまっていただけだと思います。でも、母親はそこに対して不満があったようで「結婚当時からその振る舞いが嫌だった」という話を小学生の頃からずっと聞いていました。そうした環境もあってか、母親は私が幼い頃から検査しても原因がはっきりしない体調不調が続いていました。いわゆる不定愁訴ですね。ある時は自律神経失調症、またある時は更年期障害…といったようにずっと体の不調がありました。

そんなある日、母親が通っていた整骨院の先生が施術の流れで母親を抱き起こしてくれたことがありました。母親は先生の優しさや気遣いにとても感動した反面「私は20年間、妻として、女性として何をやってきたんだろう」と強い喪失感を抱いてしまったそうです。その後、母親は急激に気分が落ち込んでいきました。そして、1か月もたたない内に一切家事ができなくなってしまったんです。私が20歳になって数カ月たった頃の出来事でした。

この出来事がきっかけとなり、私は母親の代わりに毎日家事をしたり、母親の病院に付き添ったりするようになりました。もともと高校生時代から母親のために早めに帰ったり、お弁当をつくったり、後片付けをしたりはしていましたが、それを毎日続けるという生活に変わっていったんです。

―お母さんの気持ちが落ちてしまってから、お母さんはどんな状態だったんでしょうか。

当時は、椅子に座ってぼーっとしたりすることが多かったですね。私が25歳になる頃には寝たきりに近い状態になっていました。母親が元々抱えていた「ご飯が上手く食べられない」「眠れない」「寒気」「イライラ」「不安」といった症状がよりひどくなっていった感じですね。1日にコンビニのサンドイッチを1個食べるかどうか、という日もありました。 そういう状態が続くと低栄養になってしまって、手足がパンパンに腫れてしまうんです。さらに過緊張による全身の震えやこわばりが出て、母親自身も震えを抑えたくても抑えられないような状態が続いた時には「明日にでも母親は死んでしまうかもしれないのではないか」と思いました。その時は自分にはどうすることもできなかったので、父親が救急車を呼んで、母親は精神病院に入院することになりました。

「死んでしまうかもしれない」そう感じるほど状態が悪化してしまった

夫婦間の距離が回復のきっかけに

―それからお母さんはずっと精神病院に入院されていたんでしょうか?

いえ、母親の症状は一般的なうつ病や統合失調症よりも症状が軽かったようで、数か月で退院することになりました。母親は退院先として自宅に戻らざるを得ませんでしたが、母親にとって、自宅で父親と過ごすということが何よりの苦痛であり、体調が悪化した原因ではないかと私は思っていました。だからこそ、入院によって父親と離れた生活したことで体調が良くなったんだろうと思っています。

大学時代は実家から通学したのですが、自分の中で「家にいたくない」という思いがあり、大学卒業後は実家から離れた大学院に行こうと決意しました。母親には「あなたがいないと暮らしていけない」と止められましたが、実家で暮らし続けることに限界を感じていたので、家を出る決意が揺らぐことはありませんでした。母親との話し合いの末、週1回は帰ってくるという約束で大学院に進学し、1人暮らしを始めました。

大学院を卒業した後も、「実家には戻りたくない」という思いが強く、就職活動の際も実家に通える距離の会社を選び、1人暮らしを続けていました。その一方で、母親の体調は少しずつ悪化していきました。そこで、私は3年半勤めた会社を辞め、母親と2人で暮らすことを決意したんです。そのタイミングで父親には「家を出て行ってほしい。代わりに私が実家で母親と暮らすから」と伝え、実家を出て行ってもらいました。

こうして、母親と2人暮らしが始まったのですが、父親が出て行ってから1~2か月もしない内に母親の状態はみるみる良くなっていったんです。一緒に遊びに行ったり、外食に行くこともできるほど回復していきました。その時に「やっぱり母親のストレスの原因は父親だったんだ」と再確認しましたね。

一緒に外出を楽しむ松岡さん(左)とお母さん(右)①

一緒に外出を楽しむ松岡さん(左)とお母さん(右)②

―お父さんに「家を出て行ってほしい」と伝えた時、すぐ受け入れてもらえたのでしょうか?

すぐに、とはいきませんでした。それまで私は父親に「お母さんには~してあげないといけないんだよ」と母親が求めていることをずっと伝えていたのですが「それはできない」と断られ続けていたんです。それでも、父親はその他の生活の介助や経済的なことは馬車馬のようにやってくれていました。そのため「なんで俺が出て行かないといけないんだ」という思いを持っていたんだと思います。父親に家を出ていってもらったのは、説得したというよりも、半ば強制的な感じだったかもしれません。その後5~6年くらいは父親に「早く家に帰りたい」と言われ続けていました。

お母さんとの2人暮らしを始めた松岡さん。その先には、松岡さん自身が「人生で一番つらかった」と振り返る出来事が待っていました。インタビュー後半はこちらから

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この記事を書いた人

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