現在は自立訓練施設に通う10代のこはるさん(仮名)。
ヤングケアラーが過ごす家庭は、家族のケア以外に複雑な事情を抱えていることが多く、こはるさんの家庭も例外ではなかった。幼少期から始まった虐待、そして虐待から解放されたと思った矢先に始まる家族の介護。彼女に降りかかる様々な苦難に迫る。
幼い頃から「親戚のお兄ちゃん」に虐待を受ける日々
ーどのような家庭環境だったのですか?
お姉ちゃんが2人、お父さんとお母さんとおばあちゃん、そして親戚のお兄ちゃんが一緒に住んでいました。お母さんは私が小学2年生の頃に別居してしまい、そこからはお母さんとは月に1〜2回会うだけになってしまいました。親戚のお兄ちゃんは家から出ず、いわゆる「ひきこもり」状態でした。
ー親戚のお兄ちゃんがこはるさんの実家にひきこもっていたんですね
おばあちゃんとお母さんが言うには、私が生まれる前から親戚のお兄ちゃんは家にいたみたいです。いつからひきこもったかはわからないですが、もともと親戚間の距離が近かったんだと思います。
そして私は、小学生の頃からそのお兄ちゃんから虐待を受けてました。
叩かれたり、暴言を吐かれたり、暴力振るわれたり蹴られたりもしました。私の帰りが遅かったりすると、お兄ちゃんはすぐに怒って私に暴力を振るい、友達と遊びたいと言っても遊ばせてくれませんでした。
最初は、お兄ちゃんが暴力を振るう対象は小学生のお姉ちゃんたちでした。でもお姉ちゃんが大きくなり私が小学生の上がると、お兄ちゃんはターゲットを私に変えるようになったんです。そしてその頃には、お兄ちゃんだけでなくお姉ちゃんも一緒になって私をおもちゃ扱いするようになりました。お姉ちゃんは特に暴言がひどかったのを覚えてます。
そんな日々を過ごしていると、いつに間にか私は笑えなくなっていました。
ーご両親は、お兄ちゃんの虐待についてどう思っていたんですか?
お母さんはすでに離れて暮らしていたので、直接相談することはあまりできませんでした。それでも私はお母さんの電話番号だけは知っていたので、家に誰もいないタイミングを見計らってお母さんに電話したりしていました。一方お父さんは、仕事が忙しくてあまり相談できる雰囲気ではありませんでした。
小学生の頃は結局誰にもまともに相談できませんでした。お兄ちゃんからの虐待はずっと続いていましたが、私が中学生に上がった頃、ようやく学校の先生に相談してみようと思えるようになりました。私の話を聞いた先生は「虐待を受けてると知らなかった」と驚いていましたが、夏休みなどの長期休みでも先生がいるから学校においでと言ってくれました。それは私にとってはすごくありがたく、助かったのを覚えています。
ー虐待はいつまで続いたのでしょうか?
中学3年生の頃、お母さんに電話をしたら「児童相談所に相談した方がいい」と言われたんです。そう言われて、自分で児童相談所に電話をしました。そこから物事は一気に進みだし、児童相談所の人や自治体のこども課の人が私の話を聞いてくれたり、カウンセリングの先生とも話をしました。
その後、お父さんは学校に呼ばれ私が虐待を受けているという話をされたみたいなんですが、帰ってきたお父さんは私に「まさか虐待を受けてるなんて知らなかった」「なんで(虐待されていることを)言ってくれなかったのか。言ってくれればよかったのに」という言葉を私に投げかけました。
私はその言葉が本当にショックでした。「だってお父さんは聞く耳を持たなかったじゃない」とお父さんに言っても、お父さんは不機嫌になるばかりで、その後しばらくお父さんとも険悪になりました。
ー小学生の頃は誰かに相談はできなかったのでしょうか?
小学生の頃、学校の先生に相談したことはありました。
でも相談したら、先生は私の家に電話をかけてしまったんです。そして最悪なことに、その電話に出たのはお兄ちゃんでした。当然お兄ちゃんは激昂して、私をひどく責めました。それもあって、小学生の頃は先生に相談するのが怖くなってしまいました。
そして中学2年生の頃、ようやく先生に相談してみようと思い、意を決して相談したら「電話は家電にはかけないからね」と言ってくれたんです。本当に助かりました。
ー児童相談所につながってからは、お兄ちゃんと離れることはできたのでしょうか?
はい。私と引き離されることになり、お兄ちゃんは家から出ていきました。それでも、今現在も虐待のトラウマは消えていません。
そして、お兄ちゃんと離れられるとなったころ、おばあちゃんの介護が始まったんです。
虐待が終わり、そして介護が始まる
最初の頃は、デイサービスの人がくるまでおばあちゃんを見守ったり、デイサービスの人が家を出て行く前に学校から帰宅したりしていました。冬は服を着せて手袋させたり、トイレに一緒に行ったり。介護士さんが来たら玄関に一緒に行ったりもしていましたね。
デイサービスの人が来るまでおばあちゃんのお世話をして、デイサービスの人が来てから登校するので授業の始まるギリギリに学校について、みたいな生活でした。それもあって遅刻や早退は多かったです。
ー遅刻早退について学校の先生には何か言われなかったんですか?
先生には(自分の)体調が悪いと言っていました。ひょっとしたら先生は薄々気づいていたかもしれません。
当時私は先生にも、周りの人にも、自分がおばあちゃんのケアしてるというのを知られたくなかったんです。当時はとにかく孤独で、言ったところでどうせこの状況は伝わらないでしょ、と思っていました。それに、虐待からようやく抜けられたのに、おばあちゃんのお世話のことでさらに先生に負担をかけるのもな、と思い遠慮していたのもあります。
でも、今となっては思うのは、相談してよかったんだなと。もし今家族のケアをしている中高生がいたら、周りに気軽に相談していいんだよと伝えたいです。
ーその後おばあちゃんの状態は悪化していったんでしょうか?
私が高校生に上がる頃、おばあちゃんはちょっとずつ動けなくなっていき、車椅子になってしまいました。
それからというもの、私はおばあちゃんの食事介助、薬をしっかり飲ませたり薬が落ちていないかの確認、送迎車が来た時の送り迎え、食器洗いや炊事洗濯、家の掃除などをやっていました。料理はお姉ちゃんでしたが、それ以外の家事とおばあちゃんのお世話は私がやっていました。
私には軽度知的障害があって、勉強や日常生活を送る中でやりにくいことも多くある中で、自分の障害ともおばあちゃんとも向き合っていました。しかし高校2〜3年生の頃、友達や先生とうまく関係を築けなくなり、学校に行けなくなってしまいましたんです。
不登校になってからは、おばあちゃんの介護が私の生活の中心になっていきました。
ー当時、おばあちゃんの介護は辛いと思っていましたか?
辛いというよりも、精神的に疲れていました。洗濯物も、多い日だと1日4〜5回回したり、やることがあまりに多くて疲れてしまっていました。
ー周りの大人に助けてもらえる場面はあまりなかったのでしょうか?
おばあちゃんの介護について誰かに話しても、助けてもらえることはありませんでした。デイサービスとショートステイに入っていたのでそれは助かっていましたが、おばあちゃんが家にいる時がとても大変でした。
おばあちゃんが動けなくなってからは、土日は24時間見守りをしていました。見守っていないと、おばあちゃんが自分でトイレを一人でやろうとしちゃったりするので。認知症も患っていたので、何回私たちが「(呼び出し用の)ベルで呼んでね」って言っても自分でやろうとしちゃうんです。
そんな生活だったので、土日だから休めるという概念はなかったです。例えばお姉ちゃんが出かけたりしたら、家にいるのは私だけです。見守りカメラをつけていても、私たちが遠くにいると対応できないので、そばにいる私しかおばあちゃんは頼ることができないんだと感じていました。それでもおばあちゃんの介護という意味では家族は団結していました。
ーおばあちゃんはいつ亡くなられたのでしょうか?
去年、おばあちゃんは亡くなりました。
ーおばあちゃんが亡くなったとき、家族のみんなはどんな思いでしたか?
おばあちゃんは家で最後を迎えたいという思いがあったので、最後は家で過ごしていました。
おばあちゃんが亡くなったその日、私は亡くなるギリギリのタイミングで家に帰ることができ、おばあちゃんの最後に間に合うことができました。最後までおばあちゃんを見守ることができて、本当に嬉しかったです。
お姉ちゃんも、おばあちゃんに残された時間が少ないことを知った時、電話でおばあちゃんに「私が仕事終わるまで待っててね」と言ったんです。その後おばあちゃんは一度息がなくなったんですが、お姉ちゃんが帰ってきたら息を吹き返したんです。
そしておばあちゃんは、お姉ちゃんの顔を見た瞬間に亡くなりました。孫に囲まれて見守られて、幸せな最後だったんじゃないかなと思います。
ーおばあちゃんが亡くなった後、こはるさんの生活はどう変わりましたか?
おばあちゃんが亡くなったあと、ずっと落ち込んでいました。親戚の人が「気分転換になるから学校に行きなよ」と言ってくれましたが、1〜2週間は学校に行けませんでした。学校の先生も、おばあちゃんが亡くなったという話を聞いて急遽家庭訪問に来てくれたりもしました。
その後、まず自分の心を休めなきゃと思い、少し休むことにしました。そして十分休めたかなと思えた頃、学校に行けるようになり、そこから少しずつ元気になっていきました。
ーそこからの学校生活はどうでしたか?
少し遡りますが、私は中学生の時からずっと頭痛がしていて、かかりつけ医にずっと頭痛薬をもらっていたんですが全然治らなかったんです。大きな病院の小児科にも通っていたんですが、「気持ちの問題じゃないか」という話になって、高1から精神科に通い始めるようになりました。
そしておばあちゃんが亡くなった後の高3くらいから私は自傷行為を行うようになってしまい、それはどんどんと酷くなっていきました。その時は本当に苦しくて、卒業式前に3週間ほど入院しました。そしてその後4回ほど入退院を繰り返したんですが、その後は家に訪問看護を入れてもらうことなりました。訪問看護師が来てくれた影響なのかはわからないですが、そこからは家で安心して過ごせるようになり、症状は改善していきました。
そして高校を卒業し、今は自立支援施設に通っています。
ー当時を思って、こういった支援があったらよかったのに、と思うことはありますか?
とにかく話を聞いてくれる人が欲しかったです。安心して話ができる環境が欲しかった。具体的な家事支援なども今はあるかもしれませんが、オンラインの居場所などがあった方が全然ありがたいです。物理的な支援より気持ちが楽になるような居場所が欲しかったです。
私の場合は、施設などのリアルの居場所に行くより、安心して過ごせる環境である家からでもアクセスできるオンラインの居場所の方が嬉しいと感じます。
ー同じような環境にいるヤングケアラーたちにメッセージをお願いします。
家族の世話や家の手伝いをすることは当たり前のことと思うかもしれないけど、私はそれは違うと思います。当たり前のことじゃないんです。家族を大切にすることも大事だけど、一番大事なのは自分を大切にすることです。心も、身体も。
自分の時間を大切にすることも大事なので、もし心や身体が疲れたら誰かに相談してほしいということを伝えたいです。相談するには勇気が必要かもしれないけれど、一歩勇気を出して相談してみてほしいなと思います。
ーインタビューありがとうございました。