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5歳で始まる精神疾患の母のケア。悪化していく母の症状と長女としての重圧(前編)

今回インタビューさせていただいたのは、子ども時代に精神疾患を抱える母と過ごした桜井さん(仮名)。
現在理学療法士として働きながら、精神疾患のある親を持つピアサポートグループの運営メンバーとして活動している。また、「ヒトリノ」(@hitorino_____)の主催として、精神疾患の家族がいる家庭で育った子どもたちのためのオンライン語り場を定期的に開催している。

親のケアを行っているヤングケアラーにおいて、親が精神疾患を抱えているケースが多いことは国や自治体の調査から明らかになってきている。精神疾患と一口に言っても症状は様々であるが、幼少期から母親のケアを行った桜井さんのインタビューを通じて、精神疾患ケアのリアルをお届けしたい。
(本記事はインタビュー全体の前編です。後編はこちら

5歳で始まった、母親のメンタルケア

ーヤングケアラーとして、どんな幼少期でしたか?

母、父、妹と自分の四人家族だったのですが、母は私が生まれる前から精神疾患を持っていたようです。学生時代に妄言や希死念慮があったらしく、当時はうつ病と診断されていたみたいです。私が5歳になるくらいまでは、母はどこにでもいる普通のお母さんという感じでした。私も母のことは病気だと思っていなかったですね。しかし5歳の時、ある事件がきっかけで母は変わってしまいました。

ある日の夜、家族四人でご飯を食べ終わって妹と私が遊んでいる時に、両親がキッチンで向かい合って何かを話し合っていました。すると母が突然「私なんていない方がいいと思ってるんやろ」と叫び出したんです。その場に緊張が走ったのも束の間、母は「お前らなんて知らん、出ていく」と静止を振り解いて出ていこうとしました。

私は、母が今出ていったらもう一生会えなくなると思い、妹と一緒に玄関で通せんぼをしたのを覚えています。何時間そんなやりとりが続いたでしょうか。父が母に「もうやめよう、子どもたちもこんなに泣いてるぞ」と言ったんです。そしたら母はハッとなり、落ち着きを取り戻しました。しかし、この時から明らかに母の精神状態は不安定になっていきました。

ーお母さんの様子はどう変化したのですか?

家にいる時も、ずっと暗く落ち込んでいるような雰囲気になりました。母の調子にも波があり、悪い日はベランダから飛び降りようとしたり、自傷行為をするようになりました。きっとみんな私なんていない方がいいと思っている、と自責することもあり、その度に私は「そんなことないよ」と母を慰めていました。

ー5歳でお母さんのメンタルケアをしていたんですね。

はい。当時父は「お母さんは病気だからこうなってしまった」と言っていましたが、5歳の私は「私がわがままを言ったからお母さんがこうなっちゃったんだ」と思い込んでいました。

その後、母親は症状が安定せず、私が小学校に入学するまでの間に精神病院の入退院を繰り返すようになります。私が幼稚園にいた頃は、母は家にいるより精神病院にいる期間の方が長かったかもしれません。当時の私はもちろん精神病院という概念はわからず「きっと元気なお母さんに戻るために病院に行っているんだな」と思っていました。

母親の病状悪化により、幼稚園生の桜井さんが母親のケアを行う状態に

小学生で料理、家事、母のメンタルケアの全てを担うことに

ー小学校に入ってからはどうでしたか?

実は小学校に入学してすぐ、私は学校に行けなくなってしまいました。親との分離不安が強く出てしまい、学校に行ったら不安が高まってしまうんです。体温計に息を吹きかけて風邪のふりをしたり、食べたものを無理やり吐いてみたり、色々な手段を使いました。無理をして学校に行ったとしても、登校してすぐに父親に迎えにきて帰ることもありました。

しかしその時私が学校に行けないことを、担任の先生や父親は「新しい環境に慣れてないからだ。だからそのうちに行けるようになる」と考えていたと思います。体調不良を演じる私を父や先生はあきれ顔で見ていたからです。その後、2年生になって学校には行けるようにはなりましたが、今振り返ると強迫障害や不安障害のような症状は以降もずっと出ていたように思います。

私が学校に行けるようになったのは、単純に「学校という新しい環境に慣れたから」ではなく「自分が不安でいることに慣れてしまったから」ではないかと、今では思います。でも当時はその不安な気持ちを言語化することできず、不安の赴くままに行動するしかありませんでした。

学校に行けないことは私自身の精一杯の心のSOSだったんです。私が学校に行けなくなってしまった時期にもし、周りの大人がその理由を「学校に慣れていないからだ」と単純に決めつけるのではなく「なぜこの子は学校に行けないんだろう」「もしかしたら家庭環境が影響しているのではないか」と考えてくれる大人が一人でもいたら、私の心は少しでも救われていたんじゃないかと思います。決めつけるのではなく、当時の子どもの私と対話をしてほしかったですね。

ーその頃、お母さんのケアはどうでしたか?

最初は、遠方にいる父方の祖母がケアを手伝ってくれていました。ご飯を作ったり母親のケアをしてくれていたのですが、私が小学3〜4年生になり手がかからなくなってきた時に、祖母は自分の家に帰っていきました。そこからは私が家の中で母親役になったんです。

最初は父と分担して家事や料理をしていたんですが、父の帰りが遅いのもあり、小学4年生の頃には基本的に私がご飯を全て作っていました。父に家事を頼まれたわけではなく、父の負担を減らしたい一心で自ら進んでやっていましたね。

ー小学3〜4年生で・・・火も包丁も使いますよね?

そうですね。当時は食材とレシピが家に届くようなミールキットみたいなものを使っていて、買い出しは基本いらないんですが、火も包丁も使っていました笑。

ーお母さんはその間どうしていたのですか?

母や基本家にいましたが、薬を飲んで意識が朦朧としていたり、寝ていることが多かったですね。起きてきても「こんなお母さんでごめんね」とうなだれる母を小学生の私が慰めるというような感じでした。

小学3年生でキッチンに立ち、4年生には毎日の食事を作る生活。誰かに頼るわけにもいかない


ー当時、自分の家庭は普通の状態ではないと思っていましたか?

全く思っていませんでした。物心ついた時からこの状態でしたし、これが普通だと思っていました。違和感を感じたとすれば、例えばある日友達の家に遊びに行って「みんなでおやつを作ろう」となったんです。その時友達のお母さんが材料とかいろんなものを用意したり、手伝ってくれたんですね。その時に「あれ、なんか自分のとこと違うな」と思ったのは覚えています笑。

小学校高学年、引っ越しと同時に悪化する母の症状

小学校4年生のとき、引っ越しをすることになったんです。その引っ越し準備をしていた3ヶ月〜半年くらいの間、母はすごく調子が良くて、もう病気は治ったんじゃないかと希望さえ抱きました。しかし、引っ越して慣れない土地で過ごし始めるうち、母の症状は以前よりも悪化してしまいました。

そこからの母は、パーソナリティ障害の症状が強く出ていたんだと思います。自分自身を責める傾向があった今までの状態と異なり、家で暴れたりオーバードーズを繰り返したり、暴力性が外に出てくるようになりました。母の感情の波はより一層激しくなり、家族も全く母の感情を読めなくなりました。

そして家の中は、まるで猛獣がいるアマゾンに放り込まれたような環境になりました。いつキレるかわからない母に常に気を使って生活をし、母が暴れ出したら私と父で羽交い締めにして落ち着ける日々が続きました。

ーその後、桜井さんが中学生になって変化は

母が快方に向かうことはありませんでした。今でも鮮明に覚えているのは、私が中学生の時、学校から帰ったら母がリビングでうつ伏せで意識不明で倒れていたんです。私はその状況があまりにも怖くて、玄関を一度しめて玄関外で5分くらい座り込んでしまいました。その後意を決して扉を開けて母にそろりそろりと近づいていき、母を揺さぶりながら父に電話かけました。

結果、その時母はオーバードーズによるショック症状で倒れており救急車を呼んでその場はおさまったのですが、母親が家にいる時は家に帰るのが怖かったです。母はリストカットしていないだろうか、首吊っていないだろうか、と毎日不安でした。

ー当時、誰かにこの状況を相談できなかったのでしょうか?

相談はしていなかったです。というのも、大人に相談できなくなったきっかけがありました。

桜井さんが大人に相談できなくなったきっかけとは・・・後編はこちらから。

【イベントのお知らせ】
桜井さんがヤングケアラーとしての実体験を語るオンラインイベントが9/5(木) 20:00〜にて開催されます。
詳しくはこちらから。

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この記事を書いた人

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