筋ジストロフィーの兄と精神疾患を持つ姉がいる家庭で育った米田愛子さん(@official_credes)。
現在は映像デザイン事務所を自身で立ち上げ、ドキュメンタリーや映像作品の制作等を行いつつ、社会的養護や家族問題をテーマにワークショップの開催や講演活動を行っている。
米田さん自身が制作・監督した、筋ジストロフィーの兄を描いたドキュメンタリー作品「おにい~筋ジスになって絶望はないの?機能不全家族の妹が問う~」は、国内外の数々の賞を受賞した。しかし、その制作に至るまでの彼女の想い、人生は美談だけで語られるものではない。きょうだいの中で「自分だけが病気ではない」ことで彼女の人生はどんどんと追い込まれていく。きょうだい児として、ヤングケアラーとして過ごした日々をインタビューした。
幼少期は「普通の家族」だった
ー幼少期、どんな家庭でしたか?
幼少期のころは、普通の家族だったと思います。5人家族で、父と母、そして姉と兄と私。私は末っ子で、姉とは4歳差、兄とは2歳差でした。
ー家族の状況が変わってしまったのはいつごろですか?
私が小学4〜5年生のころ、姉が不登校になってしまったんです。そして同時期に兄の筋ジストロフィーが発覚しました。その時点で、私はいわゆる「きょうだい児」という立場になりました。
筋ジストロフィーの中にもいくつか種類がありますが、兄は「顔面肩甲上腕型筋ジストロフィー」と呼ばれるものでした。筋肉や運動能力の低下もありましたが、日常的に痛みを伴うことが多く、兄の精神状態はどんどん不安定になっていったんです。
ーお父さんやお母さんは、お兄ちゃんの病気やお姉ちゃんの不登校をどう受け止めていたんでしょうか?
父は理学療法士、母は元看護師だったこともあって「自分たちでなんとかできるのでは」とプレッシャーを感じていたように思います。実際父は、病気になってしまった兄と、不登校になった姉のことで思い悩み、一家心中をしようとするくらい追い込まれていました。
それぞれが追い込まれていく中で、家族の関係性はおかしくなり始めました。兄は痛みからくるストレスから私に大声で怒鳴ったり、精神的な暴力をすることもあったのですが、それを父に相談しても「そうか」と反応するだけで、父は家族の問題に向き合わなくなっていきました。
逆に母は過干渉になり、精神的にも不安定になっていきました。私が兄や姉について相談をしても「家族のことを悪く言うなんて」とまともに取り合ってもらえませんでした。必然的に、家庭はギスギスした雰囲気になっていきました。
そうこうしているうちに、不登校だった姉が精神障害を患ってしまうんです。姉が精神障害になったことで、自殺未遂や自傷行為を繰り返すようになり、家庭の状態はより悪化していきました。
自分がピエロになることが家族を保つ手段だった
当時私は、自分がピエロみたいに振る舞って家族を笑わせてあげようと振る舞ったり、家事や料理をすることで母や兄の機嫌を取ろうと、率先して家のことをやっていました。
しかしそんな生活を続けることで私も精神的に追い込まれていってしまい、中学生になる頃には私自身も自傷行為をするようになり、心身ともにボロボロになっていました。
ー相談できる相手はいたんでしょうか?
家の中には相談できる人はいませんでした。母に「不眠症になってしまって、精神的にも不安定で、どうすればいいかな」と相談しても、母は「(姉だけでなく)お前まで頭おかしくなったんか」とキレてしまい、とても相談になりませんでした。
でも、保健室の先生とスクールカウンセラーの先生は、私の話をちゃんと聞いて受け止めてくれました。それがとても大きな救いになりました。自分の命は先生達が繋げてくれたと思います。
ー家の中に安心できる居場所はなかったんですね
家の中では「兄>姉>父>母or私(米田さん)」というヒエラルキーが出来上がっていました。家族全体が難病の兄を気持ちよく生活させてあげないといけないという意識がとても強かったのを覚えています。兄は、イライラすると、言葉の暴力だけなく物理的な暴力も私に振るうようになりましたし、姉も気分が不安定になると私に卑猥な言葉を言ったり、容姿を卑下したりといった攻撃の矛先を向けるようになっていました。
ー当時、お母さんも追い込まれていたんでしょうか?
母も、親族から「お前の育て方が悪かった」「産み方が悪かったんだ」と言われ、精神的に追い込まれていたようです。そして精神的に追い込まれた母は風水にハマってしまい、家族の問題や解決方法を風水に求めるようになっていきました。
私が体調や精神の不調を母に相談した時に、赤い毛糸玉を渡されて「これを持ってたら大丈夫だから」と言われてしまい、コミュニケーションが一方通行だなと絶望を感じたのを覚えています。
落ちていく成績。高校受験も束の間、自身も不登校に
そんな生活をしていたので、当然のように中学校での成績はどんどん落ちていきました。学年で下から数えたほうが早かったですね。
高校受験も迫り、さすがに両親もまずいと思ったのか家庭教師をつけてくれました。そこで家庭教師の先生は、授業を始める前に「元気ないね、どうしたの?」と言った会話から始めてくれたんです。そこで私は「家が怖い、家にいたくない」と言った話ができて、思いを吐き出してスッキリした状態で勉強できるようになりました。そこから成績は上がっていき、無事高校に入学できました。
ー高校生になってから状況に変化はありましたか?
家族の病気の状態はより悪くなっていきました。それに相まって私の精神状態も悪化し、私自身も自殺衝動に駆られるようになっていきました。ずっと「この世に必要とされていない」「生きている価値がない」と感じながら生活していたのを覚えています。
そして高校2年生になった頃、私は学校に行けなくなりました。
ーその時、相談できる先はなかったのでしょうか?
なかったですね。学校と家しか居場所はなかったのと、私が行けるシェルターのような場所も知りませんでした。中学生の頃の話ですが、誰かに話を聞いてほしい、家から出たい、と思いインターネット掲示板で「話を聞いてあげる」と連絡をくれた人物のところに行き、性被害に遭ってしまいました。それが私の自殺願望により拍車をかけました。「もう、いく場所どこにもないじゃん」って。
今となって思うのは、「家じゃない、安心できるスペース」が本当に必要だったなと思います。
実家を離れることで心身は復調へ
不登校を経て、高校3年生は実家を離れ母方の祖母の家で定時制の高校に通うことになったんです。そこで実家やきょうだいから離れて1年間過ごしていたら、精神も体調もみるみる良くなっていきました。
その後、高校卒業後は1年間だけ家に戻って短大に通ったのですが、やはり実家にいると私の体調はどんどん悪くなってしまい、もう家にいれないと思い短大から大学に編入して一人暮らしするようになりました。
ー家を出てから、家族の状況に変化はありましたか?
姉が就職を目指して外に出始めました。これは家族にとっては非常に大きいイベントでしたね。兄はゲームやプログラミングや英会話などに熱量を向けるようになり、前向きな要素も増えていきました。
そして私は大学に入って、私の歩み寄りかた次第で家族と仲良くなれるのでは、と思い「おにい」というドキュメンタリー作品を撮ったんです。私はこの映像作品を通して、家族のヒエラルキーに従って兄をなるべく素晴らしく描こうと思っていました。
ー「おにい」は家族からどう受け止められましたか?
兄からは、屈辱的だったと言われました。
一方、視聴者からは感動したと言われることも多く、賞も受賞することができ、テレビ放送も叶いました。他人からは賞賛されたんですが、家族からは「お前がすごい訳じゃないから勘違いするな」「その作品を評価してくれた人がすごいんだ」と言われ、私は「なんてものを作ったんだ」「(自分は)なんて勘違いをしていたんだ」と思い作品を封印したんです。
クリエイターとして独立開業、しかし家族に追い込まれる日々
その後、2019年にクリエイターとして独立開業しました。実家で開業したのですが、やはり私の体調はどんどんと悪化していきました。その後、家庭の都合で家は母と兄と私の3人の状態になりかけたんですが、この3人で暮らすということに対しての不安は想像を絶するもので、家族の雰囲気も関係性も到底耐えられるものではありませんでした。
「生きていても同じことの繰り返し。生きてる価値も意味もない。疲れた。」
私は限界を迎え、もう死のうと思いました。
独立開業してそれなりの稼ぎをする夢も叶えた、映像とデザインで食べていく夢も叶えた。高校生の時死ななかったのは自分の夢があったからですが、もう夢を叶えたのだし生きている理由はありませんでした。
頑張ったとしてもまた同じしんどい目に遭うし、いつか家族を殺してしまうかもしれないし、ポジティブに思考を変換したとしても、この現実は変わらない。私の存在価値はないのに、なんでこんなに生に執着してるんだろうと思い、身辺整理を始めました。
自分の周辺のものを捨て、ドキュメンタリーで受賞した盾も全部捨てました。その時に夫と出会ったんです。夫に最後の挨拶として「死にますので今までありがとうございました、最後に出会えたのがあなたでよかったです」という話をしたら、夫が「死ぬにしても生きるにしても、あなたと一緒にいたいのでこっちに来て結婚してみないか」と言われ、実家を出て夫と結婚しました。
そしてそれをきっかけに、家族とは絶縁しました。
家族のことで苦しむ子どもに向けて
ーその後、ドキュメンタリー作品は再び公開されたんですね
はい、家族との絶縁後、封印していた「おにい」はその後手を加え、再び世に出しました。
ー米田さんと同じく家族のことで苦しむ子どもたちにメッセージをいただけますか
人から必要とされていることと、利用されていることは別物だということを伝えたいです。
あなた方が感じている痛みは、痛いかどうかはあなたが決めていい。家族があなたの痛みに「そんなの痛くない」「痛いはずない、家族なんだから」と言うことはあると思いますが、それを決めていいのはあなた。あなたの価値観で決めていいんだよ、とそう思います。
ー貴重なお話、ありがとうございました。
終わりに
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