現在社会福祉士を目指して大学に通うそらさん(仮名)。
きょうだい児として日々を過ごす中で、きょうだい児に向けた行政の支援があまりにも少ないと感じ、自らきょうだい児支援を行うために社会福祉士となるべく現在勉強中だ。
難病を抱えて生まれた弟、介護に疲弊する母
ー家族構成を教えてください。
父と母、私と弟の4人家族です。
弟は先天性の難病で、重度の心身障がいを持って生まれました。
弟は、生後すぐ難病の影響で緑内障と白内障の手術をしなければなりませんでした。そして歩けるようになるためにリハビリをしましたが、結局歩けるようにはなりませんでした。
私が小学生低学年の頃、弟はすぐ風邪から気管支炎や肺炎の症状が出てしまうために入退院を繰り返していました。その後徐々に症状は悪化し、私が小学生高学年になった頃には喘息やてんかんの症状も出るようになってしまい、大変な日々を過ごしていました。
ーそらさんは小学生の頃から弟さんのお世話をしていたのでしょうか?
弟は基本寝たきりなので、私が小学生の頃はテレビを弟が見たい番組に変えてあげたり、遊んであげたり、ご飯を食べさせてあげたり、日常のお世話も含む介護的な要素もあったように思います。でも当時は介護というより弟が可愛いから面倒を見てあげている、という感覚でしたね。ケアという感じはしていなかったです。実際、私自身特に追い込まれたり負担を感じてはいませんでした。
しかし一方、母は弟の介護に疲れていってました。弟は小学校に週に1度通学できればよい方といった感じで、学校に行けたと思ったら疲れて朝まで寝てしまったりと体調管理も難しく、介護する母の生活リズムも壊れていきました。母は昼間に起きていられない時も多く、そんな時は小学生ながらに私が弟の分のご飯を作っていました。
体調が悪化する母、両親の喧嘩が絶えない日々
介護の疲れからか母は体調を崩しがちになり、私が中学生の頃には、母は3日寝込んで1日元気になり、また3日寝込んで・・・といった満身創痍の状態になっていました。
私が中学3年生の頃にはミールキットを頼んでいたのですが、母が寝込んでいてミールキットを作れない日は、私がお弁当や母の好きなものを外で買ってきたりしていました。食事以外のことは父がやってくれていたのですが、ご飯の確保は私の役目でした。
小学生の頃は弟と遊ぶ時間も多かったのですが、中学生になった私にとっては、知能の遅れがある弟と日常的に遊ぶことを楽しめなくなってしまい、弟とは自然と距離が空いてしまうようになりました。弟が私の食事介助でご飯を食べてくれなくなってしまったのもその頃からです。
当時私たちだけで弟の世話ができる状態ではなかったため、週の半分は弟を母の実家に預け、金土日だけ弟は我が家に帰ってくるようなローテーションで回っていました。金曜の昼間は母が弟の面倒を見ていたんですが、やはり土日は母の体調が悪く起きていることができないので、週末は父がメインで弟の面倒を見ていました。
ー弟さんのケアでそらさんの負担になっていたことはありましたか?
弟の世話もそうですが、両親の喧嘩が一番しんどかったです。
母が体調を崩している日はどうしても父に弟の介護負担が偏ってしまうので、仕事で疲れている父は母に不満をぶつけることも少なくありませんでした。私はそのたびに両親の喧嘩を仲裁していましたが、その場はおさまったとしても次の週にはまた同じような内容で喧嘩をしていました。
経済的にも困ることが多く、私が家族の分のお弁当を買って帰っても、お母さんの財布にお金がないことで私が建て替えることもありました。2回に1回は私が立て替えていたような記憶があります。お年玉やお小遣いから払っていたんですが、中学生の私には結構しんどかったですね。
父は怒ると物に当たるタイプで「怖い人」というイメージがあったので、お金が足らないことを父に相談すると怒らせてしまうかもと思い、切り出すこともできませんでした。
ーそのような状況を誰かに相談できましたか?
高校生になる頃には担任の先生に話すことができていました。中学生の頃までは、学校の先生が家のことを聞いてくれるとは思っていなかったんです。でも高校の担任の先生は聞くのが上手な先生で、私が希望した時には話をずっと聞いてくれていました。私が家の事情でお金が困った時にはお金を貸してくれたり、とてもいい先生だったんです。
ー高校の担任の先生に相談できるようになったきっかけがあったのでしょうか?
高校は通信の高校でした。毎月出さなきゃいけない課題があったんですが、日頃から提出物を出すと「毎月期日までに提出してえらいね」と言う声がけはもらっていました。
ある日、ホームルームで担任の先生が新居を買ったという話があったんです。そこで、先生の旦那さんが油はねを拭いてくれないのを先生が指摘するべきかどうか見たいな話し合いがあったんですが、そこで「みんなの両親は喧嘩する?」みたいな話題になって、その場の流れで私に話を振られました。
そこで私は「うちは両親はめちゃくちゃ喧嘩しますよ」と言ったんですが、ちょうどその二週間後くらいに本当に両親の激しい喧嘩が起きたんです。そこでZoomチャットで先生に「もし聞いてもらえるなら」と伝えてみたら「昼休み職員室おいで」と言ってもらって、そこで初めて先生に家族のことについて深く話をすることができました。
母親の回復、安定し始める家庭
私が高校生になる頃、母親の体調が少しずつ良くなっていきました。ちょうどコロナ禍の時期だったこともあり、弟が家にいる時間が増え、私もZoom授業が増えたことで弟と接する時間が増えていきました。その頃は弟もてんかんの症状は落ち着き、喘息も管理が上手になっていました。今まで弟は年に2〜3回は入院していましたが、年に1度ほどの入院で安定しており、家族の負担も減っていきました。
両親の喧嘩も無くなりはしませんでしたが、中学生の頃よりは随分とマシになりました。私が高校3年生になる頃には母の体調も良くなり、私がお弁当を買う必要がないくらいまで回復しました。
ーそらさんが高校卒業後はどうでしたか?
私は大学入学後合わなくて休学したのですが、その後社会福祉士を目指せる通信制の大学を見つけそちらに進学しました。
一度父が病気で入院した時があったんですが、その間は洗濯やご飯の準備などを私がやらなきゃいけない期間がありました。弟のご飯も私が食べさせる必要があったのですが、その時期から、(そらさんが小学生の時のように)弟は私の手からもご飯を食べてくれるようになりました。
いつか、自分が支援する側に
ー今は社会福祉士になるための勉強をしていると思います。どういった理由で社会福祉士を目指されているのでしょうか?
きょうだい児として過ごしてきた中で、きょうだい児支援があまりに少ないことに問題意識を持っていたんです。困っているときに相談できる大人がいない、家に居たくないと思った時に行ける居場所もない。
私が高校1年生の時にオンラインのきょうだい会に出会ったんですが、そこでの交流を通じて、人に話を聞いてもらうことって大事なんだなと思ったんです。話を聞いてもらうと自分も前向きになれて、自分もそう行った居場所を作ってあげたいなと思いきょうだい児支援を志すようになりました。
ー具体的に、どういった支援が欲しかったですか?
話を聞いてくれる専門職や、自分もきょうだい児だった大人が周りにいて欲しかったです。もしそういった大人が、我が家で使える制度を教えてくれていたら、使うかどうかはともかく情報があるだけで救われる部分もあったと思います。安心感と正しい知識を教えてくれる場所や人が必要だなと思っています。
我が家もケアマネさんが弟についてくれてはいました。ケアマネさんは放課後デイや福祉の窓口の案内はしてくれますが、姉の立場で親を差し置いて役所に行くのもためらわれますし、役所が開いているのは平日9時〜17時なので、高校生の身分で行くことはなかなかハードルの高い行為でした。
相談の窓口も、電話をかけるのはやはりハードルが高いです。ラインとかメールとか、一度文字を挟んでからやり取りしてから、対面やZoomのやりとりに繋げてくれた方が相談しやすいと思います。
ー同じ環境の子どもたちにメッセージをいただけますか。
自分のタイミングで相談すれば大丈夫だよ、と伝えたいです。色んな大人に「相談して欲しい」と言われるかもしれません。また、自分で相談先を見つけてみたけれど、なかなか相談する勇気が出ない時もあるかもしれない。
相談する勇気が出た時、その時が相談するタイミングなんだと思います。
実際、私がつながった先で出会った人はとてもいい人達が多かったです。あんまり悪いイメージは抱かず相談してみて欲しいなと思います。
加えて、支援者の皆さんは、もっと当事者や家庭に踏み込んで欲しいなとも思います。ご時世や個人情報の関係もあるかもしれないですが、積極的にこの支援が使えるなどの情報を教えてくれたり、もっと家庭の様子を気にしてほしいなと思います。
もちろん本人が嫌がっているのにしつこく踏み入るのは違うと思いますが、こういう制度があるよ、などの情報を渡す分にはおせっかいでいいんじゃないかな、と私は思います。
ー貴重なお話、ありがとうございました。